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バンコクでのタイ語留学奮闘記!?頑張れ日本人代表♪

2011年3月全くのゼロからタイ語学習をスタート!同年9月から現在に至ってはタイのバンコクに滞在中。バンコクの生活情報やタイ語留学でのおすすめ勉強法や教材などをご紹介していきます。by タイ在住わらしべ長者

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不法入国、不法滞在で逮捕!タイの留置場、裁判所、収容所の実態を暴露【第5章】

記事公開日:2016年10月9日
最終更新日:2016年10月12日


バンコクのわらしべです。

 

現在連載記事を公開中。本日は第5章をお送り致します。

 

【前回までのあらすじ】タイ出国時に入国スタンプがない事から不法入国、不法滞在者とみなされ逮捕。留置所に入れられた翌日、護送車で裁判所へ向う。そこで有罪判決を言い渡されるが初犯と言うことで罰金のみで免れた。ようやく解放されるかと思いきや。。。

 

【第1章】 国境越え
【第2章】 逮捕
【第3章】 留置場
【第4章】 裁判
【第5章】 収容所(その壱) ※当記事
【第6章】 収容所(その弐)
【最終章】国外退去

 

では、さっそく続きをどうぞ!


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【第5章】収容所(その壱)

 

時刻は午後3時。

 

全ての荷物を返してもらっているので、片手で携帯を取り出し、護送車の中から電話を掛けます。

 

「安田さん、ホント助かった!ありがとうございました!」

 

「良かったな。だがまだ油断するな。あの警察のいいかげんさは信用できない。念の為に箇所箇所で電話をくれ。」

 

 

「わかりました。携帯を充電しながらこのまま電源を入れておいて、また掛けます。」

 

日本から持ってきておいた携帯式充電器を繋ぎ、日本の家族へも電話を入れておきます。

 

荷物を再確認。あれ、一番大事なパスポートが無い。まだ警官が持っているんだな。

 

パスポート以外は何一つ減っても増えてもいません。

 

 

ミャンマー兄弟の弟君が、私が履いている靴をねだってきたので、交換を承諾。

 

多分ものすごく貧乏なんだろう。もらったのは100円ショップにありそうな無地でペラペラのスリッパ。

 

あれ?彼らは何一つ所持品がない。ポケットにも何一つ入っていない。文無しだ。

 

3日間一緒にいたが、そういえば彼らには一度も面会人が無く、警官に頼み事もしてなかった。

 

どんな場面で、どんな容疑で逮捕されたのか知らない。

 

英語もほとんど通じない彼らのことで私が知っているのは、彼らは車の洗車の仕事を兄弟一緒にしている事と、私が逮捕された理由を「パスポートにスタンプが無いからだ」と伝えた時に「自分たちはパスポートを持っていない」と伝え返してきた。

 

私は、そうかまあ10代で若いし貧乏だから海外旅行にはなかなか行けないだろうな程度に理解していました。

 

まあ私と一緒にまもなく解放されるだろうから、飯でも奢ってやろうかな。

 

※後述しますが、後に彼らの大変さを推測ですが、やっと理解することが出来ました。

 

 

携帯を握りしめたまま、外を注意深く見ていると、高速を降り、繁華街のとある建物の敷地内に車が入っていきます。

 

「イミグレーション センター」の英語の文字が読めました。

 

そうか!ここでパスポートの処理手続きをするのか。

 

即座に電話を繋ぎ、

 

「安田さん、もう一つの所とはイミグレーションセンターだったんだ。今着いた。手続き終わったらすぐにまた電話します。」

 

 

ここから私は消息不明となります。

 

 

護送車から降り、繋がれたままキャリーバックを引き、イミグレーションセンターの建物内に入りました。

 

歩いて行くと門のような大きな鉄格子の扉の前に、空港で見る保安検査のゲートがあります。(くぐって金属持ってるとブザーが鳴るアレ)。

 

ゲートと扉の奥には庭のような開けた空間が見えます。

 

勝手の判らない私にはそれが、このトラブルのゴールに見えました。あの扉ををくぐり終われば解放なんだ。

 

ゲート前の警備員と運転手の警官が話しています。警官の手には書類と赤い色の小冊子状が見えます。私のパスポートです。

 

警官がなにか書類にサインしパスポート毎警備員に渡しています。そして私達の手錠が外されました。

 

外されて両腕とも自由になったときには、もう半分以上解放された気分になりました。

 

財布以外の荷物を警備員に預けます。

 

チェックを終え、ゲートをくぐる様に促されます。

 

当然ブザーは鳴らず、1m程先の扉をくぐります。

 

私は扉をくぐったとき、心の中で「ゴーーール!」と本当に叫んでいました。

 

やった開放だ!!扉の外は自由なんだ。

 

 

扉の外を、3人は警備員に誘導されて庭のようなところを歩いてきます。

 

私のキャリーバックを警備員が転がして先導していきます。

 

出たんだから、すぐに返せばいいのに。さっきは正式な出口じゃないのかな。正式な出口まで運んでくれるのかな?イミグレーションセンターの人はやさしいな。

 

よくテレビで刑務所からの出所時、門の刑務官に挨拶して自分ひとりで歩き始めるイメージだったので、そんなことを思いながら、庭の古めかしくカラフルな歩道を見ながらボーっとついていきました。

 

突然、止まったのでビクッと顔をあげると警備員の姿の先には、

 

牢屋。

 

人がたくさんいる、牢屋。

 

 

肌の浅黒い人が犇めき合って座っている、牢屋。

 

中にいる大勢の人が一斉にブーイングを始めた、牢屋

 

3階建ての建物で、歩いてきた庭に面した1階で、同じような鉄格子の並んでいる複数の部屋の一つ、牢屋

 

間違いなく牢屋(動画を発見。少し様子が違いますが間違いなくこの部屋です。)

※ここからも感情の描写は、しばらく割愛します。

 

 

鍵を開け、中に入る様に促されます。

 

ちょっと待って!とにかく電話をかけさせてくれ!

 

首を横に振られ、再度促されます。

 

中に入るしかありません。

 

 

中に入ろうとする1歩目から、人の足を踏まないようにしなければならない程、犇めき合っています。

 

パッと見渡し、私に似た肌の色を探します。

 

いないとわかると、ミャンマー兄弟に引っ付いて人の足を踏まないよう入ります。

 

皆明らかに不満そうな顔で、近くに来るなという顔をしています。

 

先のブーイングは我々3人と警備員に対するブーイングで、これ以上人が増えることに耐えられない意味と気づきました。

 

なんとか皆に3人分の隙間をもらい、四方隣同士が完全密着の状態で体操座りで座ります。

 

 

なぜ?

 

何が起こったのか?

 

私はまた捕まったのか?

 

罰金は安田さんが裁判所で払ってくれて私の罪は終わったはず、捕まる理由は?

 

ここは何だ?

 

なぜイミグレーションセンターに牢屋がある?

 

この中はまるで奴隷部屋じゃないか?

 

 

中に肌の白い人たちが固まっている集団を見つけました。

 

きっと英語が通じるはず。

 

そこまで何とかして移動、またスペースを作ってもらい座り、白人達に話しかけました。

 

※ここでもカルチャーショックを受けたのですが、少なくともここでは10人程度の白人系で英語を話せるのは半分程度で、数十人はいた肌の黒い中東系は皆英語ペラペラ。

 

親しくなれたのはほとんど中東系でした。なお残りの大部分はタイの近隣諸国だった様子。

 

中東系の皆は日本のことをよく知っていました。ヒロシマナガサキの話から日本に対する応援に話は進み、やがてアメリカの悪口になり、しまいには国際情勢を他国同士、英語で激論を交わしていました。

 

世界を知らない東洋の島国の日本人。(私だけ?)

 

一人のイラン人と仲良くなり、私は彼を「ティーチャー」と呼んで、中にいる間ずっと英語のレッスンをしてもらいました。

 

 

いろいろ情報収集してわかった事。

 

ここは、不法入国で捕まって国外に追放される人たちが一時的に収容される施設。

 

帰国チケットを用意できればここから出れる。

 

そうか私は国外追放なんだ。

 

しかし、警察はそのことを教えてはくれず、裁判後、即開放で自分でもう一つの所へ寄って自分でチケットを買って帰ると言っていた。本当に嘘ばっかりだ!!

 

しかしどうやってチケット用意するんだ?方法がわかりません。

 

チケット入手できるまでこんな奴隷部屋で生活するのか?

 

鉄格子入口付近には牢名主っぽい奴が、自分一人だけ寝そべれるスペースを確保し食料、日常品をたくさん所有しています。

 

定期的に来る物売りから鉄格子越しに品物を仕入れ、皆に転売してお店の役割をしてます。自身でも物売りから直接買えるので私も水を買おうとしたのですが、紙幣が1000バーツ札しかないので両替できずお釣りももらえないとわかり、今後の為にあきらめました。

 

こんなところに1日も耐えられるわけがありません。

 

このあとどうなるのかわかりません。

 

夕食に米と具が少しのスープが1プレートにのって支給されたので、全く食欲は無いのですが、食べないと死んでしまうと真剣に思い

すべて口の中に押し込みました。

 

 

夜になり、全員が庭に出されやっと牢屋から出れることに。

 

(後で計算したら5時間ほど。)

 

 

これから建物の上部の部屋に移動するようです。

 

庭の隅にはキャリーバックの山が無造作に高く積み上げられています。

 

自分の荷物を探し持って、人種別?に並ばされます。

 

私はとにかく英語が通じる人たちと一緒にいなければと思い、中東系に頼んで一緒にさせてもらいました。

 

我々の少数の列は、おおきな荷物を持っている者ばかりで、スペースをとって鞄をあけ、部屋に持ち込んでよいものの仕分けを、比較的自由に動き回りながら、特に注意を受けることもなくちんたらやっていました。

 

対して、大勢のおそらく近隣諸国の人達、体が小さく痩せている人がほとんどで、荷物もほとんどなく、はっきりいって貧困層に見える人たちの列に対しては、刑務官が常に、少しでも列をはみ出る人に怒号を浴びせ、スタンガン式の警棒でバチバチと威嚇しています。

 

その列の中にミャンマー兄弟を見つけ、笑顔で手を振り合いました。

 

 

彼らの置かれた状況が読めてきました。

 

彼らはおそらく不法労働者。もしかしたら難民かも。

 

自国で生活できず、生活を掛けてタイに不法入国し働いていたのだろう。当然パスポートも持っているはずもなく、このまま強制送還される運命なんだろう。

 

※後にこのイミグレセンターを調べてみると、多くの人権団体がここに長期間収容されている難民の大変さ、待遇の改善を訴える記事が沢山でてきました。

 

 

荷物チェックを受け、写真を一人ずつ何枚も取られてパソコンに入力後IDカードが作成され、それを持って私達のグループ10名程でぞろぞろと階段を上がります。

 

いかにも収容所といった雰囲気の建物内を歩き、鉄扉の前でもう一度チェック。

 

扉を開け、中へ入れられます。

 

そこには大勢の先客が。

 

その収容所の写真をネットで発見(人数も同程度でした。)

(画像元:https://www.therefugeofdavid.com/mission-thailand)

 

私達新人を、その部屋の大ボスが手際よく仕分け始めました。

 

私が日本人だと判ると、「ジャパニーー」と大声で言い、人を呼びます。

 

「オー ニホンジンデスカー」と外国人が声をかけてきました。

 

この時は本当に喜びました。やったー日本語が通じる。

 

彼は日本人世話役係のロシア人の小ボスです。

 

「大丈夫よ。みんなここの事は私が教えるよー」

 

「あそこに日本人もいるよー」

 

へ?とそちらを向くと、遠くから日本人風貌の2名が私を眺めていました。

 

嬉しくて嬉しくて

 

「日本人ですかー!後で行きますー!」と大きな声で呼びかけました。

 

 

小ボスそして小ボス補佐も来て、丁寧にここのルールを教わります。

 

そして、一番大事なチケットの買い方。

 

なんとここの1階の事務室で購入することができるのです。

 

しかも明日は3日に1度のこの部屋からの解放日で、明日朝一番に私は事務室でチケットを買う事ができるらしい。

 

私は何度も何度も同じことを聞き返し、確認しました。

 

 

日本人の所に向かいます。

 

私は、それまでの鬱憤を吐き出し、2人にずっと質問しまくり愚痴を言いまくり続けて、朝まで話し続けました。

 

(人物とその内容は控えます。なかなかの経歴?の人たちがここにはたくさんいました恐・・。 なお、不法滞在、オーバーステイが理由の人が多かったです。一般人にとってここに来る一番身近な可能性かと思われますので、気を付けてください)

 

 

【第6章】収容所(その弐)に続く


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