2011年3月全くのゼロからタイ語学習をスタート!同年9月から現在に至ってはタイのバンコクに滞在中。バンコクの生活情報やタイ語留学でのおすすめ勉強法や教材などをご紹介していきます。by タイ在住わらしべ長者
あれから6年…東日本大震災が発生した40日後に訪れた気仙沼市の様子 03/11/2011
記事公開日:2017年3月15日
最終更新日:2022年8月19日
facebookのタイムラインを見てると当ブログ読者さんが撮影してシェアされた1枚の写真に目が止まった。
それはヤフージャパンが東京・銀座のソニービルの壁に出した縦長の巨大広告。
2011年3月11日に起こった東日本大震災の脅威を改めて想像して貰おうというのが目的のようだ。
Sponsored Link
垂れ幕広告の中段あたりには赤文字で【ちょうどこの高さ】と当時の気象庁が確認した津波の最大の高さ16.7メートルの位置がイメージしやすいように実寸で記されていた。
この広告幕については先日のヤフーニュースでも大きく取り上げられていた。詳細↓
ソース元⇒ yahooニュース(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170308-00000065-asahi-soci)
このソニービルの広告を見て、改めて津波の高さを知りビックリされた方も多いはず、、、
俺っち自身も東日本大震災の被災地である気仙沼市(けせんぬまし)で実際に道路の案内標識が津波によってベコべコになっているのを目の当たりにした時はゾッとしたのを今でも覚えている。
その時の写真がコチラ↓
道路の案内標識に注目
なぜか。。。ベコベコになっているΣ(・ω・ノ)ノ!
そう、この高さまでこの辺一帯が津波に飲み込まれたという生々しい現場だった。
そうか。。。もうあれから6年も経過したのか。。。(-。-)y-゜゜゜
2011年の3月11日、東日本大震災が起こった当日、俺っちは大阪のオフィスで作業をしていた。
すると突然、誰もいないはずのオフィスのドアベルが「カランコロン」と小さく響いた。。
うん? 誰も来てないのに何でドアベルが鳴った!?
個人的には体感しなかったが大阪でも地震の揺れが少し観測されたようだ。
気になりオフィスのTVをつけると東日本方面で大地震が起こった事を知る。
そこからはTVにクギ付け状態。
現地の高台に設置されていた固定カメラを通して現場の様子がリアルタイムで放送されていた。
現場ではウ~ウ~とのサイレンが鳴り止まず、TV中継では津波警報がずっと鳴り続けていた。
情報収集をしてるTV局内の様子がすっごく慌ただしかったのを今でも鮮明に覚えている。
そして地震発生から津波が押し寄せて街を飲み込んで行く一部始終をリアルタイムで見ていた。
正直、その様子が到底リアルには思えないほどの光景だった。Σ( ̄□ ̄|||)
まるで車が発泡スチロールかのように波に押されてプカプカと流されて行く。
そんな時、
「プルルルル......プルルルル......」
突然うちのスタッフから連絡が入った。
「今しがた取引先の●●さんと連絡が突然途切れた!ちょっと調べて欲しい」との事。
一瞬、嫌な予感がした。
「OK!ちょっと待て」
すぐさまパソコンの顧客情報データからその取引先の住所を調べると。。。
💻カチャカチャ...
\(◎o◎)/!
宮城県気仙沼市!
嫌な予感が的中、その地震の震源地から最も近い宮城県在住の方だった。
これはヤバいな。(-_-;)
ちょうどその頃には津波ですっぽりと飲み込まれた被災地の様子を現地のカメラが生々しく映していた。🌊
結局、当日その方との連絡は一切繋がらないままだった。
交錯状態だったニュース速報も夕方頃には徐々にその被害状況が明らかになってきた。
そして既に皆さんもご存知のように3.11のあの大惨事でたくさんの人が亡くなった。
地震直後は東北地方太平洋沖地震と呼ばれていたが、のちに東日本大震災と一般的に呼ばれるようになったアノ忘れられない出来事。
それから1ヶ月経ってもその取引先の●●さんからは一向に連絡はなかった。
うちのスタッフたちはその取引先の●●さんと直接面識があるだけに日々その方の生存を心配をしていた。※ちなみに俺っち自身はその方との直接的な面識はない。
このままではスタッフたちの不安から日々の業務に支障が出てはマズいと感じ、彼らを安心させる為に俺っちが代表してその方の安否確認しに被災地へ行く事を急きょ決定!
しかし翌の月曜日には外せないアポが入っており捜索の猶予期間は金、土、日曜日の三日間だけ。
正直まだ余震が続いていており、また福島原発の放射能問題も騒がれていた真っ只中だった。
4月21日(木)の午後、
上記の理由から地震発生の40日後、バイクで大阪を出発し、宮城県の気仙沼市へ向かった。
事前情報ではある程度日本の自衛隊の活躍により物資が運べるように道は舗装されたようだがまだまだ段差やヒビがある状態だという。
その為、車で向かうと現場周辺の渋滞に巻き込まれたり、また道路が舗装されてなく段差があればその時点で先へ進めなくなったりする事を想定して小回りの利くバイクでの遠征を決めた。
出発初日はちょうど大阪から宮城県の中間地点にあたる神奈川県に住む友人宅で一泊させて貰う事にした。
大阪に住んでいると実感しなかったが神奈川のIC(インターチェンジ)を出た辺りから震災での影響で電力の節電が行われており関東圏内が異様に薄暗かったのを覚えている。
あぁ~これも東京電力の影響か。。。
何はともあれ無事に厚木市に住む親友と合流出来た初日、長旅の運転で疲れていた事もありシャワーを浴びさせて貰った後はすぐに爆睡。
そして翌朝の4月22日(金)、
友人が会社へ出社する時間に合わせて俺っちも神奈川から宮城県へ向かって再出発した。
4月22日(金)、夜の23:00
道路のひび割れに気をつけながらひたすら一本道を走行、ようやく今回の目的地である気仙沼の道路標識を発見!
( ´ー`)フゥー...よし!もうすぐだ。
それから気仙沼市内への案内標識を見つけた時には既に日をまたぎ4月23日(土)の深夜0:30を回っていた。
現場では未だ断続的に余震が続いていた。
大阪から気仙沼市までの片道のバイク走行距離は1033km、かなりの疲労でクタクタ。(=_=)
朝、神奈川の厚木市を出発してから何も口にしていなかったのでお腹もペコペコだった。とりあえず静まり返った気仙沼市内を軽くブラつくと一軒だけ深夜なのに開いているコンビニを発見。店内に入ると物資が少ないからか陳列している商品(パンが少々)が非常に少ない。この周辺にまだ住んでいる被災者、もしくは復旧作業に訪れているボランティアの方々への貴重な食料かもしれないと察して空腹だったが目覚しの熱々缶コーヒーだけを購入。そのコンビニ前で撮った1枚の写真。かなり疲れ切った顔をしている俺っち...(=_=)
※クリックで拡大
深夜12時を過ぎた気仙沼市内の様子。静かすぎて鳥肌が立つほど不気味な気配を感じた。
写真にはたくさんのオーブが映り込んでいる。(-_-;)
※クリックで拡大
道路に乗り上げた船やグシャグシャに破壊された高級車。。。見るに無残な光景だった。
結局、この夜は気仙沼市内では宿泊先を見つける事が出来ず、またも眠気と闘いながら気仙沼市から50km離れた隣町まで戻り、小汚いモーテルを見つけてベッドに倒れるように即落ちした。(-_-)zzz
そして翌朝、またバイクで50kmほど走り、気仙沼市内へ到着。
その光景を見て驚愕した。Σ(゚Д゚;)
昨夜の到着したばかりの深夜は真っ暗で分からなかったが、ほぼほぼ町全体が壊滅状態だった。
まさかこれほどまでとは。。。(゚Д゚;)
遠くを見渡してもガレキの山、
線路の反対側には柵も倒され、遠くに大型貨物船が見える。
あんな巨大な貨物船がここまで流されて来たのか。。。(-_-;)
まるで映画撮影のセットではないかと目を疑いたくなるほど非現実的な光景がそこにはあった。
※クリックで拡大
歩道橋の階段もベコベコの状態、この無残な光景に嘔吐したくなったほどだ。
正直ガレキの下にはまだ死体が埋もれているんじゃないかとさえ思ったが幸いにもそれを目の当たりする事はなかった。きっと自衛隊の方々が頑張って下さったんだと思う。m(_ _)m 感謝
で、さっそく今回の目的である●●さんの安否確認の捜索を開始。
ここまで来るのに既に2日間を費やしている為、タイムリミットは明日の日曜の夕方までだった。
正直、事前調べでその方の住所周辺が津波の被害で跡形も無くなっている事はGoogleマップから容易に予測していた。( ˘ω˘ )
が、希望を捨てずその方が津波から逃げ切り高台まで無事に避難し、今はどこかの避難所にいると信じてこの被災地まで足を運んだ。
しかし現場を見てまず真っ先に感じた事、
もしも避難警報を無視してここに居残っていたならば流石の俺っちでも100%死んでいたと思わすほどの惨状だった...
そこから時間が許す限り近場のあらゆる避難所をトコトン聞き込みして回った。
避難所にはボランティアで来られている方々もいて、皆さんとても丁寧に対応してくれた。
その中には広島から駆け付けた人もいたりと各々がその場で出来る事に尽力をつくされていた。
ボランティアの皆さん!その節は大変お世話になりました。(o*。_。)oペコッ
で、俺っちがまず最初に現場で取った行動は避難所にある避難者の名簿を徹底的に調べて回った。
それには避難なされた方々の名前が記入されているからだ。しばらく避難所で待機していたがその後に親類を頼って街を去って行かれた住民の名前も明記されている。
たくさんの方が避難されたのが一目で分かるぐらい分厚い名簿だった。
ほとんどの避難者名簿がアカサタナ順に整理されており、その方の苗字がAさんだった事もあり名前のを探すのに幸か不幸か時間を要しませんでした。
しかしながら結果的には俺っちが足を運んだ気仙沼市のほとんどの避難所そして市役所の名簿内にはその方の名前を見つける事は出来なかった...(T_T)
「大丈夫!きっとどこかで生きているはずだ!」
と自分に言い聞かせながらAさんを探していたのを覚えている。
道行く人の中には山の上に遺体安置所があるからそっちも確認してみたらどうかと提案された...
が、俺っちはその方の生存を本気で信じているが故に遺体安置所には足を運ばなかった。
正直、今思えば死体を確認する勇気が無かっただけかもしれません。。( ノД`)…
超プラス思考の俺っちは内心、今回の任務もいつもの様にハッピーエンドで遂行されると思っていたのでしょう...
避難所にいるAさんを早期に見つけ出し、ささっと安否確認を終わらし、余った時間で現地のガレキ撤去のお手伝いなんかをしてスッキリした気持ちで大阪へ帰って来ると...
そんな理想的なイメージをしてました。。。が。。。
現実はそう甘くない、とても無念な気持ちで今回の任務を果たせず気仙沼市を後にする結果となった。
諺であるように「便りがないのは良い知らせ!」「No news is good news!」
そう心からAさんの無事を願った。
帰路の際、気仙沼市から石巻市(いしのまきし)への道中の様子
※クリックで拡大
このあたり一帯も壊滅的で見るに無残な光景だった。( ノД`)シクシク…
地震、津波、これら自然災害の前では人類はなすすべがないと改めて思い知らされた。
25日(月) 無事に帰省
その3日間の往復走行距離は何と 2173km
現場で時間が許されるギリギリまで捜索してた事もあり、帰省の際はノンストップで1日1000km以上を走行する
超過酷なスケジュールとなった。1日の走行距離が過去最長となった訳ですが、正直、死ぬほど眠かったです!(=_=) 実際トンネルの通過時には外部との温度差で急に暖かくなるものですから一瞬眠りに落ち、気づいたら壁に激突しそうなほどスレスレの状態が3度ほどあり、かなり危なかったです。(゚Д゚;)
もしも過去にバイクでオーストラリアを7000km旅をした経験値がなければ、きっと事故って死んでいたかもしれません。
いつもご先祖さんに守られているような気がします。。(^_-)-☆
最後に...
津波を被ったにもかかわらず力強く育った桜の木が満開だったのがとても印象的でした。
大丈夫、きっと元に戻るさ!。。。Time heals everything!
コメントフォーム